理想と現実

 最悪だ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分の右手、包帯でしっかりと固定された小指と薬指を見て、またため息をひとつ。昼休憩をもらってすぐ、駆け込むように屋上へ逃げ込んできたはいいものの、これからどうしたらいいんだろう。

「まさか、君だったとはな」

 背後から聞こえた声に私は目を瞑る。今は、会いたくなかった。咄嗟に右手を隠すけれど、今更どうしようもないだろう。彼の言い方によると、きっと怪我をしたことを聞いたに違いない。後ろを振り向くのには、かなり勇気が必要だった。

「あ、赤井さんじゃないですか、っ」

 我ながらぎこちなさが否めない。笑顔が引き攣っているのが自分でも分かる、ということは赤井さんも当然分かっているのだろう。居た堪れなくて彼に背を向けると、目の前に空が広がる。今日は、物凄く天気が良い日だった。

「えっ、と……お昼、食べました?」

 赤井さんは私の横、一人分のスペースを空けた先までやってくると何を言うでもなく煙草とマッチを取り出している。二人きりの屋上、会話なし、私は絶賛自己嫌悪中。とんでもなく居心地が悪くて、当たり障りのない質問を選んでみたのだけど、彼は煙草を咥えたまま遠く空を見つめているだけ。私の質問が聞こえなかったわけじゃない。無視をしている訳でもない。あくまでも自分のペースは崩さない姿が、少し羨ましかった。

「決められた時間に休憩を取るなど、この仕事をしていては無理な話だ」

 長い間を置いて、彼の口から出てきた言葉は私の胸を深く刺した。赤井さんは決して、そんなつもりで言ったわけでなはいと思うけれど。

「そう、ですよね……」

 ずっと内勤ばかりだった私は、彼の言う忙しさを体感できていない。捜査官としての常識が身に付いていないことを指摘されているようで、うまく返事が出来なかった。

「下で、話題になっていたよ。待望の新人がデビュー早々、フルフェイスの男に殴りかかって小指の骨を折ったとな」
「っ……え、?」
 
 赤井さんの言葉に驚いて顔を上げると、彼は再び煙草を咥えている。ちょっと待って。どうしてそんな話になっているんだろう。

「ちっ、違います!それ全然違いますから!」
「……経緯はどうであれ、結果は同じだろう?」

 私の右手に視線をやりながら、赤井さんは目を細める。

「い、いや……あの、これは折れたんじゃなくて、ちょっとだけヒビが入って……!」

 必死に訂正しようと指を見せるけれど、ぷっくりと腫れ上がったように見える指先の包帯では、ヒビだろうと何だろうと格好悪いことこの上ない。案の定、それがどうした、と言いたげに赤井さんは片眉を上げているから、顔がどんどん熱くなってくる。

「そ、それに殴りかかったんじゃなくて、そのっ、飛んできたヘルメットを避けようとして……それで、」

 段々と、声が小さくなっていく。赤井さんの誤解を解こうと必死に説明するけれど、真実もまた胸を張れるものではない。無謀にも自ら犯人に立ち向かった故の怪我か、ただの事故で負った怪我なのか。どちらかが捜査官として誇らしいか。

「残念ながら、そうとは伝わっていないようだな」

 赤井さんは煙草を持つ手を口から離すと、塀の外へと視線を向けた。太陽の光に照らされた横顔が綺麗で、少し見惚れてしまう。でも、それを噛み締めている余裕はない。

「そ、っか……」

 どうやら私が病院へ行っている間に、話が誇張されて広まっていったらしい。だから戻ってきた時、あれ程視線を感じたのだ。包帯が目立っていたのかと思っていたけど、そうじゃない。

「そ、っかぁ……」

 だったらこの後、どんな顔をして戻ればいいんだろう。完全に、役に立たない新人のレッテルを貼られてしまっている。いや、数週間の間拳銃も握れなければ、利き手である右手が使えないせいで内勤だってままならないのだ。役に立たないレッテルではなく、本当に役に立てない人になってしまう。

「うう、赤井さん、」

 平気を装うけれど、内心は本気で焦っている。少し声が震えていた。それに気づいているのか、赤井さんがこちらを見てくれる。

「私っ、クビに、なったりっ……します?」

 思い切ってそんな事を聞いたら、赤井さんは数秒、瞬きを繰り返していた。

「あっ、いや……」

 急に恥ずかしくなって下を向くと、赤井さんがふっと息を漏らした。顔を上げれば、彼は口元を軽く綻ばせている。

「まあ、それで成り立つような組織なら、そうしているだろうがな」
「……っ」
「何より、わざわざ撒いた種を芽も出ていない内に掘り出すことの方が馬鹿げているだろう」

 自分の行く末を悟って絶望していた私と違い、赤井さんは軽い口調でそう言った。なにをそこまで心配するんだと言いたげな表情をしている。
 
「でも、もし芽が出なかったら、っ?」
「……芽を、出す気がないのか?」

 その言葉に、私は数度首を振る。だって、そんなつもりはない。

「……あります、ずっと」

 なのに自分のあまりの出来なさに、泣きたくなってくる。アカデミーの時は、優秀とは言えなくとも劣等生でも無かったはずだった。それもアカデミーという小さな世界での話だったのか、自分よりも下位の成績だった男の子が、先輩捜査官と仲良さげに捜査から帰ってくるのを見る度に内心酷く落ち込んでいるのも事実。

「そうだろうな、」
「……え、?」
「じゃなきゃ、あそこまで資料整理に精を出さんだろう」

 ぱちりと、開かれた赤井さんの瞳と数秒、見つめ合う。彼なりの冗談だと分かって少し吹き出すと、気が楽になる。自分を取り巻いていた重苦しい空気がどこかへ飛んでいったようだ。赤井さんも、心なしか表情が柔らかいように見える。

「あれ、実は結構他の方から感謝されたんです。見やすくなったよーって」
「良かったじゃないか」
「っ、です、よね!……うん、そうだ!なら次は私、内勤のプロになります。効率よく仕事を回して、皆さんがより捜査に時間を費やせるようにするんです!」

 そうして作業手順の不満や改善すべき点を思いつくまま話していると、いつの間にか元気も出てきていた。忙しいはずの赤井さんに向かって何をしているんだろうと思うけれど、彼は煙草を片手に、それでもちゃんと耳を傾けてくれていた。

「なので、赤井さんも困り事があったら教えてくださいね。私、どうにかして改善してみせますので」
「頼もしいことだな」

 それは、お遊びの延長線上にあるような言い方だったけれど、でも嬉しかった。いつか、本当の意味で彼に頼られるような、存在になれたら。

「じゃあ、見ていてください」

 私がそう言うと、赤井さんは微かに口角を上げる。意外にも柔らかな視線を受けて、胸の奥が熱くなった。

「昼飯は食っておけよ、」

 ちょうど吸い終わった煙草の火を消して、赤井さんは階段の方へと歩いていく。言われてみれば確かに、急にお腹も空いてきた。

「はーい」

 もう閉められてしまったドアを見つめながら、私はそっと笑う。きっと返事は聞こえていたはずだ。